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天才画家・青木繁が描いた「天草風景」

本渡亀川尻の河口附近から見た対岸の上島の瀬戸、志柿方面の風景画とされる。
当時、主要港だった楠浦大門と本渡町の往復時に見た風景だったのだろうか・・・

 

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夭折の天才画家 青木繁が描いた「天草風景」

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天才画家・青木繁の天草放浪

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数年前、古老から「青木繁の描いた天草風景がオークションで2億円の値が付いた」と教えられたとき、私は衝撃を受けた。驚きと共に、恥ずかしい話ではあるが、その絵すら私は見たことがなかったのだ。

「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」(いずれも国指定重要文化財・石橋美術館所蔵=福岡県久留米市)などを描いた福岡県久留米市出身で、日本美術史上に残る夭折の天才画家、青木繁(あおき しげる 1882~1911年)が「天草風景」(大原美術館所蔵=岡山県倉敷市)を描いた話を、地元で知る人は少ない。

1909(明治42)年1月、青木が28歳の若さで亡くなる2年前、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科の同級生であった高木巌さん(1879~1954年)の熊本県天草市諏訪町の自宅に滞在し、描いたとされる。縦45.5センチ横60センチのカンヴァスに油絵の具で、山を背景に、海峡を帆掛け船が風をいっぱいに受けて、航行しているようすや、海岸で磯仕事をしている「姉さんかぶり」をした着物姿の二人の女性が描かれている風景画だ。
描かれた場所については、地元の研究者たちの調べで、本渡亀川尻の河口、妻の鼻附近から見た対岸の天草上島の瀬戸、志柿方面の風景とされる。(*4)

青木繁は1882(明治15)年7月13日、福岡県久留米市に生まれる。
1900(明治33)年、東京美術学校(のちの東京芸術大学)西洋画科に入学し、黒田清輝らの指導を受ける。
1903(明治36)年、古事記、日本書紀などの神話をモチーフにした作品「黄泉比良坂」(よもつひらさか =東京芸術大学所蔵)など十数点を白馬会第8回展に出品、白馬賞を受賞し、画壇へのデビューを果たした。

1904(明治37)年7月、東京美術学校を卒業後、坂本繁二郎など画塾不同舎の友人や、繁の恋人でもあった福田たねらとともに千葉県南部の布良(めら)に滞在し、「海の幸」など後世に残る作品を描き、白馬会第9回展に出品し、さらに注目を集めた。
しかし、1907(明治40)年、青木の自信作でもあった「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出品するが三等賞と最末席の評価で、不本意な結果に終ってしまった。
同年8月には父が亡くなる。危篤の知らせを受けた繁は単身帰郷。
1908(明治41)年10月から青木は一家を支える甲斐性もなく、九州を放浪する。翌年1月、美術学校時代の同級生で済々黌天草分校(のちの天草高校)の図画教師をしていた高木さんを訪ねる。

高木さんは東京都生まれ。父は静岡の士族で静岡、山形の郡長を務めた。兄は黄海海戦で活躍した日本海軍連合艦隊提督。また母の弟は第16および第22代の総理大臣の山本権兵衛氏がいる蒼々たる家系である。天草には縁もゆかりもなかったが、済々黌天草分校で図画教師を募集していたので、はるばる天草までやって来た。以来、図画教師としてとどまり、1954(昭和29)年75歳で亡くなった。

青木の放浪時代については、100年前の出来事であり、関係者の多くも亡くなった今、不明な点も多い。
青木が家族と衝突し、母は4人の子供を連れて実家に帰ってしまう。一人残された青木は栃木に残したたねと子幸彦の元へ帰るにはすでに時遅しだった。というのも、たねとの別れ話を持ち出したのは青木の方だったが、たねに意中の人ができ、身ごもっていた。(1909・明治42年7月24日、製麻会社員と結婚、同月に長女を出産。=ロマン展図録年譜=)
父豊吉は幸彦が孤児になることを心配し、青木に対して子の引き取りを再三強く望む手紙を出したのは1908(明治41)年秋ごろ、ちょうど青木の放浪が始まる頃と重なる。
青木がたねを後々まで思い続けたのは、彼が描く女性の顔がたねに似ていることから推測できる。愛憎の念が入り混じる。(*1)

さらに、父の失敗による負債を負い、生活は窮乏を極めた。一家を支える甲斐性もなく、自暴自棄となった青木は1908(明治41)年10月から郷里の家族とも別れて天草、佐賀などを転々とする放浪生活に入った。

1909(明治42)年1月。青木は日記で新年を熊本の「三角行きの汽車の中、餅は同地の酒楼」で迎えたと書いている。(*2)
そして高木さんを訪ねる。
高木さんは同僚教師の娘シゲさんと結婚し前の年、長男が生まれたばかりの新婚家庭であった。

妻シゲさんの証言を鈴木喜氏が57年前の毎日新聞や文化誌に書いている。
それによると、青木は正月に大矢崎の碇泊地から諏訪町の高木宅に人力車で乗り付けた。
「絵具箱も何も持たず、車賃を立て替えてくれというので、小銭がないんじゃと思い銭を払った。後から思うと一銭も持っていなさらなんだ。
零落のようじゃった」
車賃15銭を立て替えた。湯銭も立て替えたという。

高木さんの世話で町内一等の旅館「喜久屋」に泊まったが、何日かして追い出された。放逸な酒、最初は高邁な言で煙に巻いただろうが、フトコロを見透かされたのかも知れない。

高木宅に舞い戻った青木は酒色にふけった。明治末、本渡町にあった妓楼は上町の十文字亭、下町の曙亭、さらに大門口にかけて、いろは、しらたま屋があった。
表を切られると、町裏の居酒屋で漁師連中と飲んで廻った。

来島した頃、タバコは銀座岩井の天狗印舶来タバコを吸ったが、終いには2銭の島出来の手刻みタバコを吸った。泥酔したか、殴られたか、毀れた眼鏡代も立て替えた。済々黌高木巌の名前で何でも貸してくれるのんびりした明治の天草である。

昼間は玄関先の部屋で布団をかぶって寝たまま。借金取りが来ればなおさらだ。高木さんは「寝せておけ」とだけ言った。遊んで使った借金の総額は300余円也。米1升10銭、ビールは8〜9銭の時代である。当時、高木さんの月給は30〜35円だった。年収分に相当する借金を実に1ヶ月余りで作ってしまったわけである。「借金を払わんば、島から出さん」という声もあった。(*3)

シゲさんは「あまりに多いので、義母と二人で、一体どれ位になるのかと鏡台の引き出しの中に隠しておきました。
ところが青木さんが帰られた後、主人にそれを見つけられ、随分厳しく叱られました。
『女とはなんという馬鹿なことをするのか、すぐ焼き捨てろ』と不断に似合わぬ大声で叱りつけ、目の前で焼かされました。
そうですね、領収書は大分たくさんありましたよ」
シゲさんの女心で、何寸もある借金の書き付けを納めていたが、夫の目に触れて、厳しく叱られたという。(*4)

孫の聰さんの話によると、兄助一朗さんが巌さんに「中学教師ではやってゆけまい。万一の場合は節は言ってよこせ」といわれていたが、その万一を巌さんはこうた。新米教師で、恐らく薄給であったろう。今みたいにATMなど無い時代、海軍の提督だった兄は佐世保港から三角港まで、軍艦でお金を届けてくれたという。何ともスケールの大きい話である。

また、自由奔放な日々を送っていた青木に、「祖父は絵を描くことを口で言って勧めるような性格ではなかった」ので黙って、目に付くところに、そっと絵道具をおいていた。青木はそれを持ち出しては描いていたという。

当時、交通の主役は船。昭和に入るまで大矢崎港も本渡港もまだ出来ていない。楠浦大門港が本渡の玄関口だった。青木は徒歩で本渡町と大門港を往復しているうち、亀川付近で早春の天草風景が目にとまる。そして描いたのが「天草風景」だったのだろう。

「天草風景」は、1956(昭和31)年、青木の死から45年後の石橋美術館開館記念の展覧会で初めて展示され、さらに3年後、大原美術館の所蔵になり、広く世に知られるようになった。 それまで存在を知られなかったのには訳がある。

悪夢のような1月が過ぎ、青木が天草を立つ日「大変迷惑をかけた。そのお礼といってはなんだけど、この絵を受け取ってくれ」と2枚の絵を差し出した。その時の1枚が『天草風景』だった。
ところが巌さんは「旅費の足しにしろ」と受け取らなかった。また巌さんは青木に真新しい絵具とキャンバスを持たせたという。(*4)
その後、青木が旅の途中で売って金に代えたのか、所有者がだれになったのかは定かでない。

高木宅にとんだ居候を決めた青木だったが、シゲさんは「主人は最後までいやな顔もせず、よく面倒をみてやりました。
青木さんが死ぬ直前、『高木には随分迷惑をかけたよろしくお詫びしてくれ』と言い遺されたことを聞いて『本当によかった』と主人はポツリと一言申しました」(*4)

約100年前、夭折の天才画家青木繁が描いた「天草風景」
そこには古き良き時代の天草と、武士のような性格で、厳正な高木巌さんと、不覉奔放な青木繁との間に「男の友情」が見えてくる。

(2013/8/30 文責・金子寛昭=天草テレビ代表)

◎参考文献
1.松本清張『青木繁と坂本繁二郎』
2.青木繁『病蓐日誌』1911・明治44年1月2日
3.鈴木喜「天草放浪の青木繁」毎日新聞(1955・昭和30年12月22日)、鈴木喜「青木繁の天草放浪-坂本繁二郎、梅野満雄のことなど」九州人(1969・昭和44年9月)
4.大野俊康「青木繁の『天草風景』を追って」天草毎日新聞(1975・昭和50年1月30日〜2月13日)



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